デッサンについて

デッサンとは

デッサンとは目と手の訓練、その体系、その技法です
デッサンはたんなる基礎的な技術であって、正しい指導のもとで時間さえかければ誰でも習得できるものです。

目と手

  • 目、は"見ること"
  • 手、は"描くこと"

ものすごく簡単に言うと「見たものを描く」ということになりますが、ここに誤解の大きな原因があるような気がします
だいたいの人は「見る」ということを簡単に考えすぎるからです


人の眼はカメラのように光像を平面的な画素の集まりとして蓄積しているわけではありません
実際のところ、我々の"眼"が外界からどのような光刺激を受けているのか、というのは本当の意味ではわかりません
わたしたちに分かるのは、脳が認識した、脳によって認知された、知覚された視野、認識された像でしかありません
高度な感覚器官である眼が受けた刺激は、脳によって基本的な情報処理をされた後で知覚され、さらに高次の情報処理によってようやく認識されます
最初に眼が受けた刺激、その生の情報がどのようなものであるか、それを我々が自覚するすべはありません


我々の"眼"がいかに「不正確」であるかというのはさまざまな錯視を試してみればよくわかります
が、ものすごく分かりやすい例として、わたしたちの網膜には「盲点」というものがあります
これは視神経が集まっている網膜の"穴"で、そこには受容体がないためハードウェア的に情報が欠落しています
わたしたちが網膜が感じ取った光刺激をそのまま受け取っているなら、視界の中にそこだけ情報が欠損した黒い穴が映っているはずです
そうならないのは脳が周囲の情報からその欠損を補って"そこにはないはずの像"を作り出しているからです
無論、脳によるソフトウェア的な補正は盲点だけではなく多岐に、低次から高次まで他段階にわたって行われます
そういった脳によるさまざまな"補正"を経て我々は視覚を視覚として認識できるということを覚えておいて下さい


話を戻しましょう
「見たものを描く」ということは「見えたものを見えたままに描く」ということではありません
デッサンにおいて「見たものを描く」というのは「わたしたちが認識したもの」を「わたしたちが認識したように再現する」ということです
さらには、3次元である静物や人物を2次元である紙に"再現する"ということは、そこにあるはずの重さや空間を紙の上に再現する、つまり「2次元である紙に描かれた像を3次元であるかのように脳に認識させる」という処理を加えなければなりません
それには"そこにあるはずのもの"を省略し"そこにあるはずがないもの"を誇張するという技術が必要です
ようするに「脳をだます」のです


たとえば、デッサンで「輪郭線」を描き入れますね?しかしいくら目を凝らしても「輪郭線」という線が物体の周囲に見えるわけではありません
実際の物体に輪郭線など存在しないからです
では輪郭線を描かなければ、より実際に近く、より現実に近く、よりリアルに見えるでしょうか?
そうではありません
わたしたちの眼は、物体の周囲に「輪郭」を認識しているからです
それが「紙に描かれた物体」である以上、輪郭は描かれなければなりません


デッサンの技法とは、「どのように描けば脳がだまされて、そこにありもしない重さや奥行きや質感を感じとってくれるか?」という技術の集成とも言えます
そして「脳をだます」ためには、そもそも目の前の静物なり人物なりが脳によって「どのように認知・認識」されているのかを自覚的に把握しなければなりません
それは言うなれば、視覚認知のプロセスをバラバラに解体して、それを再び紙の上に構築する、ということを意味します
言うほど簡単なことではありません
簡単ではないので普通の人は訓練が必要です
デッサンの技法の中には「見る」ための方法論も含まれます


絵を描く上で"手"の技術はもちろん大切です
しかし「見る」ことができないものは「描く」こともできないのです
そして「描く」ことができない理由の大半は手技が未熟だからではなく、「見る」ということができていないせいなのです
「見る」ことができていないというのは「我々がどのように物を、世界を、見て、認識しているのか」をほんとうには理解できていないということです
「描いたもの」が「見えたもの」、「見えたと思ったもの」に見えないということは「見れていない」ということです
「描いたもの」と「見えたもの」が一致したとき、はじめてデッサン的な意味で「見る」ことができたと言えるのです

デッサンは必要か?

「デッサンなど不要である」といった論はしばしば目にします
そういう主張をしている人は、だいたいにおいてデッサンが嫌いな人たちです
デッサンはたんなる基礎的な訓練・技術にすぎないので、好きも嫌いも本来ないはずなのですが、「基礎技術など必要ない」という主張をする人たちは不思議と絶えることはありません


たとえば、良い音楽と悪い音楽、好きな音楽とそうでもない音楽、売れる音楽と売れない音楽が、ただ単純にその技術の正確さによって決まらないのと同じように、絵画やイラストの良し悪しがデッサンの正確さによって決まるわけではありません
# もちろん絵画や芸術の価値は「良い・悪い」といった一定の尺度で推し量れるものでもありませんが
楽譜が読めなくても優れたミュージシャンはたくさんいるように、デッサンが不正確でも良い作品はたくさんあります


所詮、技術に過ぎないので「必要」と思ったときに思った人が習得するよう努力すればいいだけの話です
ただし、ありとあらゆる分野について言えるのと同じように、基礎技術を早い段階で習得しておく方が、そうでない場合より早く、確実に目標に近づくということは言えると思います
無論、回り道をするのはあなたの自由ですが