意味とシステム つづき

それが現実の変容でありかつ想像の変容であるとすれば、現実の世界で起きることは当然、想像の世界でも同じように起きる。実際、極東の日本の地では虚構の上から変貌が始まったように見える。
 押井守監督の『Ghost in the Shell/功殻機動隊』(1995年)は、海外では90年代の日本アニメJapanimationの代表作として知られるが、原作を描いた士郎正宗はその変容を代表する作家の一人である。彼の作品は地下やドーム、島などの閉じた空間に建設された階層都市を主な舞台にする。エスニックな匂いの溢れるオーサカ(『ドミニオン』1985〜86年)、「バベルの塔」になぞらえた実験都市オリュンポス(『アップルシード』1985年〜)、新浜ニューポートシティや択捉の電脳都市(『功殻機動隊』1991年〜)、惑星ミマナの仙術総本山「暗黒天台」(『仙術超功殻オリオン』1991年)など、作品ごとに時間と空間を自由に横断しながらも、これらの都市は独特の見通しのきかなさを共有する。
 閉じた、有限の、全体を鳥瞰できない空間。その内で突発するテロ犯罪と、警察力の終わりなき戦い。そういう舞台装置において、士郎の作品は21世紀を予言したものといえるが、それ以上に印象的なのは、彼の描く視線である。
 2004年に新たにアニメ化された『功殻機動隊 Stand Alone Complex』と比べれば、その特徴はいっそうきわだつ。原作の『功殻機動隊』はウィリアム・ギブスンサイバーパンクSF、『ニューロマンサー(1984年/日本語訳86年)に色濃く影響された作品で、電脳化された人格や義体化される身体、ネットワーク上の仮想世界といった「接続された世界 connected world」の小道具がふんだんにちりばめられている。『Stand Alone Complex』は10年前の『Ghost in the Shell』より、はるかにうまくそれらを使いこなしているが、ある一点で原作の想像力を決定的に裏切っている。
 『Stand Alone Complex』は空中から見下ろす、鳥瞰の場面を頻繁に使う。例えば、第一話そしてシリーズ全体の冒頭場面である草薙素子のダイブ。義体の機動力に任せた高層ビルからの自由落下は、このアニメの速度感を予告する爽快なシーンであるが、士郎のマンガを見慣れた目には違和感がある。原作の同じ場面(p.8)では、草薙素子は中層ビルの壁を忍者よろしく伝わり降りている。
 そのちがいはそのまま、鳥瞰 bird-eyeと虫瞰 worm-eyeという視線のちがいでもある。士郎正宗はむしろ虫瞰の視線から描く作家である。閉じた階層都市を舞台とした作品群はもちろん、彼自身が監督したアニメ『ブラックマジックM−88(註:原文ママ(1987年)でも、やはり虫瞰的な視線が目立つ。
 それはアニメの大きな魅力である速度間を裏切り、小津安二郎の映画のような粘り気さえ感じさせる。士郎正宗の世界には『外』がない。絶対的な外部を代補する、空から見下ろす視座《パースペクティブ》が出てこない。それが彼の作品の重要な基調になっている。その『外』のなさはルーマンがやわらかく皮肉ったような、主題的に語られる対象ではなく、作品世界そのものに内属する。だから、ときに動く画《アニメーション》の快楽に背いてまでも、鳥瞰ではなく虫瞰に傾くのではないか。
 視線のちがいだけではない。原作に比べて、『Stand Alone Complex』の登場人物はやたら「神」について語る。その点でいえば、『Stand Alone Complex』は士郎正宗の『功殻機動隊』よりも、70年代東京への郷愁を背景に、OSに侵入するウィルスを反キリストになぞらえた押井守のアニメ『機動警察パトレイバー the Movie(1989年)の延長線上にある。あるいは、『Stand Alone Complex』は『パトレイバー』よりもさらにだらしなく「神」についてお喋りすることで、「語ることの終わり」を終わりなく語る現代の作品になりえているのかもしれないが。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/432665337X

清書する際に間違えたのか、痛恨の誤植。ここだけ読むとアニメ雑誌の抜粋みたいだなw
それにしてもよく読んでますね佐藤先生

ブラックマジックM66絵コンテ集 (Comic borne)

ブラックマジックM66絵コンテ集 (Comic borne)