レッシグ

スタンフォード大学に移る前は、ハーバード大学及びシカゴ大学のロー・スクールで教えていた。政治的にはリベラルだとみられているが、非常に保守的なことで知られるリチャード・ポズナー判事とアントニン・スカリア判事のロー・クラークを務めていたこともある。彼はペンシルベニア大学ビジネス・スクール、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、イェール大学ロー・スクールで学んだ。専門は憲法学およびサイバー法学。著作権の拡大に対する批判で知られる。

エルドレッド・アシュクロフト裁判(Eldred v. Ashcroft)で原告のエリック・エルドレッド(Eric Eldred)の代理人を務め、フリー・カルチャーFree Culture)のコンセプトを打ち出した。また、フリーソフトウェア運動も支持している。フリーソフトウェア財団と自らが設立したクリエイティブ・コモンズの理事を務めている。

ソフトウェア特許オープンソースイノベーションの脅威になると予想しており、2002年に行われたOSCONのスピーチではこの話題がおよそ半分を占めた。

2002年には、フリーソフトウェア財団のフリーソフトウェア推進栄誉賞を受賞した。2004年4月よりフリーソフトウェア財団の理事をつとめる。

ローレンス・レッシグ - Wikipedia

コモンズ

コモンズ

  1. 法律以外にも人の行為を規制する方法はある。市場でコストを高くすることやコミュニティなどで規範をつくること、そしてアーキテクチャを生かすことだ。
  2. ネットでは、そのなかでもコード(ソフトウェア)による規制がきわめて強力だ。だからネット上の規制は不完全どころか、コードを通じた完全すぎる規制が実現する可能性があるし、まさにその方向に向けてネットは動いている。
  3. 法律は、コントロールが完全になりすぎないような措置が意図的に講じてある(フェアコースやプライバシーなど)。コントロールが不完全であることに重要な民主主義の価値があるからだ。
  4. その不完全さが残るようにするためにのみ、コードに規制をかければよいのではないか。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0719.html

CODE VERSION2.0

CODE VERSION2.0

REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方

REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方

Free Culture

Free Culture

クリエイティブ・コモンズ―デジタル時代の知的財産権

クリエイティブ・コモンズ―デジタル時代の知的財産権

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

 ここで質問が出てくる。こういう規制は意味があるのか、納得できるものなのか、ということ。著作権の規定は意味があるものなのか。

 もちろん、意味があるところもある。つまり、営利目的の複製(*1)といった創作のコアとなる部分には著作権の規制が必要。例えば映画が自由に改変されてしまったら必要な資金を調達することができなくなる。そういう規制が必要な部分はある。

 また派生物について考えるに、営利目的の派生物(*2)、これも著作権規定の対象となる。例えばジョン・グリシャムのような作家を考えてみる。小説を書いて非常に多くのお金を得ているわけだが、映画の権利を売ると言うことでもお金を手に入れている。グリシャムといった作家は、小説もあるが映画化という権利も売るわけである。したがって、こういった著作物の派生の権利も出てくる。

 非営利の改変の作品(*4)について。スタートレックのファンがストーリーを話す、書いたりする。カーク船長がどうした、スポック副長がどうしたという話が載っていたりする。これは改変となるわけだが、非営利目的である。お金儲けが目的ではない。インターネットではこういう非営利改変については規制の対象ではない。しかし、同じような活動がインターネットの文脈の中では、著作権関連の弁護士から非常に厳しい批判の声にさらされたりする。そういった非営利を目的とする改変行為について著作権の対象にしようという声が上がってくる。これは従来の著作権法とは非常に異なったもの。非営利目的のコピー活動については、実際規制がかかるべきかどうか考える必要がある。

 営利+改変(*2)の分野についても考える必要があると思う。一例として、クリスチャン・マークレー(Christian Marclay)のビデオ作品「Telephones」(1995)、15分のものだが、電話が鳴って、電話に出て、相手が誰なんだ、ということで電話をがちゃりと切って、どうなったのか、というフィルムだが、これは実はクリッピングである。つまり500の色々なフィルムから切り貼りして作った。500のフィルムを織り込む形でストーリーを作った。クリスチャン・マークレーは非常に素晴らしい作品を作ったのだが、これは一般に閲覧というわけにはいかない。クリッピングなので500の異なった著作権の許可を得ているわけではない。しかし、法律では500の違ったフィルムメーカーで許可を得るべきだということである。ここで問題になってくるのは、これが一体意味のある活動なんだろうか、許認可を500のメーカーから派生物の作品に関して求めるべきなのか。実際、これは意味がないのではないのか。

(※ここで、Bush and Blair Sing Endless Love映像上映。歌に合わせてブッシュJr.やブレアの映像が流れるが、うまくコラージュして口の動きがいかにも歌っているように見せてある。なかなか面白い)

 このようなクリエイティビティのことを言っている。これは非常に大きなクリエイティビティで、テクノロジーがあったからこそ可能になった。 3000ドルの機材を使って可能になった。これは政治的な意味合いさえある。テクノロジーなしには作れなかった。この技術によって可能になったが、法律によって不可能になっている。Appleが言っているが、「リップ、ミックス、バーン、コピー」(曲を取り出し、混ぜ合わせ、CDに焼き付け、コピーしよう)ということができないわけだ。ディクシー・チックスアメリカで言っているが、そのように大統領を責めるべきではない。この音楽を使うための許可を得る、何かを作る前にこの曲を使う許可が必要だ、と言っている。

 アメリカでこのような画像を見せると、人々は驚く。ABCとかFOXとかの助けなしに、こういうことが普通の人によってできてしまう。すごいクリエイティビティである。

 こういったものがもし大きな放送会社からきていれば、人々はソファに座って見るだろう。そうすると消費者としては、このクリエイティビティの活動の中で非常に受け身である。しかし、このカルチャーの中では、こういったものを生み出すのは不可能ではない。色々なところから出てきている。これ自体、クリエイティブな作品の再使用といえるだろう。アメリカの法律、日本の法律では。しかし、それでも許可なしのものとなっている。これは許可のない派生物の創造ということになる。

 これらの事例すべてに対してどのように考えるべきだろうか。今の規制というのは意味があるのだろうか。クリエイターをこのように規制することに意味があるのだろうか。許可を規制することに意味があるのだろうか。弁護士の必要な生活に納得できるのか。

 もちろん、知的所有権には意味がある。しかし、ここで考えなければならないのは、著作権がクリエイティビティの邪魔をしてはいけないということである。このような素晴らしいカルチャーを作ることを可能にし、政治的なものを可能にした。では、どうすればクリエイターにとってクリエイティブな活動を可能にできるか。クリエイティブな活動をどのようにすれば今のように弁護士を使わずに可能にすることができるのか。これが、クリエイティブ・コモンズが狙っているところなのである。

ローレンス・レッシグ教授との対話ミーティング【非公式私家版】[絵文録ことのは]2003/12/06