諱(いみな)と字(あざな)の違い

昔の人の名前を見ると、以下のように分類することができます。

  1. 苗字
  2. 幼名
  3. 法名
  4. 神号

まだあるかもしれません。

1 姓
大和・飛鳥・奈良時代から続く、一族の名前です。藤原・源・平・橘が四大姓と呼ばれていて、それに菅原・大伴など今ではほとんど無い姓もあります。今では「姓」と「苗字(名字)」は混同されていますが、姓は普通変えられません。DNAの問題なので。藤原の血が流れているのに、いきなり橘さんの血にはならないんですよ。でも、家康はもともと藤原氏だったのに、いつの間にか源になっていました。普通はありません。伊達さんは藤原氏です。朝廷(天皇の前)では、これを名乗ります。
2 苗字
藤原さんが、京都にはうん百人いました。地方にもうん千人いたかもしれません。まぎらわしいので、地名をそのまま名乗ったり、地名と姓を合体させて通称をつくりました。一条・九条・綾小路というのは京都の地名で、これを名字にしている藤原さんがいます。そのほか。伊勢に住んでいたので「伊勢の藤原=伊藤」ということもあります。徳川・松平・伊達というのはこれです。
3 諱
その人個人の正式名称です。家康・政宗などはこれです。これが政治的理由により変わることはよくあります。「元信→元康→家康」という感じ。これを面と向かって呼ばれる機会は朝廷や正式行事の時くらいしかありません。「家康め!」と悪意を持つときや、歴史上の有名人の名前はこれを呼びますが、あまり生存中は使いません。例えば、坂本龍馬。彼の諱は「直柔」です。西郷隆盛は本当は「隆永」です。(隆盛は役所への届け出ミス)いかに、マイナーかわかると思います。でも比較的戦国武将の諱は知られていますね。
4 字
その人個人の通称です。次郎三郎、藤次郎がこれにあたります。普通はこれを呼びます。坂本「竜馬」や桂「小五郎」、山中「鹿之助」塙「団右衛門」という感じで、こちらが有名な人もいます。「藤吉郎」秀吉もそうですね。
5 位
朝廷での偉さです。最高は正一位、そこから従一位、正二位、従二位、正三位従三位正四位上正四位下従四位上というふうに下がっていきます。生前伊達政宗は「従三位」になっています。
6 官
朝廷での仕事です。でも実際には、鎌倉時代以降名前だけです。征夷大将軍、関白、太政大臣、越前守、筑前守などがこれです。ちなみに略称もあって、右大臣は右府、内大臣は内府、中納言は黄門、左近衛少将は左近、筑前守は筑前、治部少輔は治部少など様々あって、このことからドラマで家康を「内府」、秀吉を「筑前」、石田三成を「治部少」と呼んでいるのです。政宗は侍従・陸奥守などが有名で、最終的には権中納言です。
7 幼名
生まれたときの名前です。家康は竹千代、政宗梵天丸、信長は吉法師です。秀吉が日吉丸というのは、どうもウソのようですが…。
法名
出家したり、隠居したりするとこの名前がつきます。家康・政宗にはありませんが、北条「早雲」や齋藤「道三」はこれです。
9 神号
家康は死んで神になり、東照大権現となりました。縮めて東照公、権現様と呼ばれます。政宗にもこれはあって、「武振彦命」といいます。他にも、秀吉が「豊国大明神」という例もあります。この他に諡号というものがあって、死んで付けられる「おくりな」です。政宗は「貞山」といいます。戒名もありますが、これは呼ばれないのでいいでしょう。
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なるほど、姓と苗字は違うのか


諱について追記(11/24)

7 名前: あやめ 投稿日: 2000/08/06(日) 00:31
家を相続した時点で父の通称を名乗ることは、江戸時代には普通に行わ
れていたことで今でも老舗などでみられます。例えば三井家(越後屋)は
「八郎右衛門」、伊藤家(松坂屋)は「次郎左衛門」などです。
しかしこれでは代々同名で区別がつきません。そこで諱(いみな、名乗)
を併用します。そしてその1字は代々共通のものを用います。三井家は
「高」伊藤家は「祐」です。最近の三井家当主は「高陽(たかはる)」、
伊藤家当主は「祐基(すけもと)」だったと思います(多少あやふや)。
徳川家のばあいは宗家の相続人のみが「家」字を用いる慣例でした。そ
れ以外の子達は原則として時の将軍から諱の下の1字を貰い、自分の諱
の上の1字として用いました。例えば8代将軍吉宗は5代将軍綱吉から
紀伊家当主時代に「吉」の字を賜ったのです。彼は宗家を相続した時点
で「家」字を用いてもよかったのですが、相続するについて尾張家など
と色々いきさつがあったので遠慮したのでしょう。
この「家」字のようなものを「通諱」といいます。このような併用シス
テムだったので何代目とか特に付ける必要がなかったのだと思います。


8 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/06(日) 10:05
中国の場合で言うと、名前に先祖と同じ字を使うのは
儒教の倫理に反するので避けられたと聞いたことがある。
逆に日本の場合はむしろ、先祖の一字を頂いて名前を
つけることが多いので東アジアといっても色々だと思う。


9 名前: あやめ 投稿日: 2000/08/06(日) 17:16
支那では基本的に人の諱を呼ぶことのできるのは君父のみです。子たる
もの父の諱に出会ったら極力これを口にしないように気を遣います。そ
のため色んな笑い話が伝えられています。五代の歴朝宰相として有名な
馮道の子が塾で老子の道徳経を習いました。最初の「道の道とす可きは
常の道に非らず」のとこで早くも躓く、道は父の諱でそのまま読むわけ
にはいきません。このような場合は「不敢説」(口にするわけにいかな
い)と言っておきます。塾の先生は親の名と同じ字なんだなと気づき咎
めないことになっています。そこで馮道の子は「不敢説の不敢説とす可
きは常の不敢説に非らず」(言えませんの言えませんとすべきは、いつ
もの言えませんではありません)
まして父(先祖も含め)の名の字を自分も使うなどというのは不孝の極
みです。必ず別の字を選ばなければなりません。
しかしこのような縦系列と異なり横系列では、通常は1字を共にし他
の1字は文字構成部分を共にするのが慣例になっています。
例えばラストエンペラー溥儀の実弟は溥傑でいとこは溥任、またいと
こが溥佐と溥セン(フォントなし、人偏に全)溥仲と、上1字は溥字を
共にし下1字は人偏を共にします。少し遠くなると溥エイ(フォントな
し、金偏に榮)というように下1字の偏が異なるといった按配です。こ
の横1列を「溥字輩」と称します。
このような各代で使用する名の上1字は康煕帝のとき子に胤、孫に弘
の字を用いるよう定めたのを始め、以後各代の用字は永綿奕載溥毓恒
菇ガイ(フォントなし、門構に豈)増祺と溥儀の6代の子孫の分まで決
まっているのです。下の字についても皇帝の系統の親疎により細かく
規定されています。
こうした制度は明の皇帝についても行われています。また皇帝の家に
限らず宗族制度と共に広く行われています。


11 名前: あやめ 投稿日: 2000/08/06(日) 19:20
朝鮮も大体は支那と同じと思いますが、越南(ヴェトナム)はまた違い
ます。
越南の場合には氏名3字のうち最初の1字が姓で最後の1字が名であ
るのは確かですが、中間の1字の性格はやや曖昧です。通常サブファ
ミリーネームと理解されており、それが間違いとも言えませんが名と
別物とも言いきれない側面もあります。ヴェトナムは姓の数が少ない
ので同姓内の細別を要したものでしょう。
例として阮朝の大南皇帝についてみると、最後の皇帝のバオダイの氏
名は阮福テン(フォントなし、日偏に典)で字(あざな)は永瑞です。
因みにバオダイ(保大)は1945A.D.まで行われていた大南帝国の元号
で、バオダイ帝は永楽帝とか乾隆帝とかいうような通称です。
阮氏は鄭氏と共に黎朝の重臣で、ヴェトナム南部を根拠として北部の
鄭氏と抗争していた一族ですが、最初は阮淦や阮コウ(三水に黄)など
1字の諱を用いていましたが、3代目の阮源から阮福源と称するよう
になりました。「大南寔録前編」には「国姓を定めて阮福氏と曰う」
とありますので、福字が副次的な姓というのも一応肯認できるようで
す。その後数代を経て阮福映が西山党の乱を平らげ越南を統一しまし
た。バオダイの先祖です。阮福映の前までは名の中に三水を使ってい
ましたが、皇帝を称したためか日偏を使うようになりました。
しかし清朝に対しては冊封を受け安南国王阮映と称していました。
阮朝の前の黎朝後期の皇帝は代々維字を姓と名の間に用いています。
これらは皇帝の場合ですが一般庶民もこの副姓を名乗っています。
ゴー・ディン・ジェム(呉廷エン、玉偏+炎)のディンとかファン・
ヴァン・ドン(范文同?)のヴァンがそれです。
しかし例えばホー・チ・ミン(胡志明)が一時名乗っていた阮愛国
いう名の愛国は、明らかに2字連ねて名として用いていたように思
われます。
なお女性の名の真中のチ(グェン・チ・ビンのように)は「氏」字を
ヴェトナム音で読んだもので、固有名詞的部分ではありません。

同名を名乗る事について〜

よくみたらこれ2000年のレスか


<2011/11/21追記>

>「名を翼・・・字は国南・・・通称 文左衛門」とあって字と通称は異なるものとしています

この場合の「名」は忌み名(諱)です。通称は一般的な通り名で、字は(語弊はありますが)ペンネームとか源氏名に近い感覚のものです。

どういう使い分けをするかというと、諱はその人の本名であり親と本人ぐらいしか知らないものです。これは、ご存知の通り本名を知られると呪いを掛けることができるようになってしまうから、という理由によるものです(呪いといっても死神が本名を呼ぶと本人は魂を取られる、というような感じです)

通称は誰でも呼べる名前です。亀田鵬斎も近所の人とか顔見知りの八百屋さんなどでは「文左衛門さん」で通っていたでしょう。だから通称ということになります。

それに対して「字」はその人の仕事に関する名称と尊称ということになります。亀田鵬斎を例にとれば、儒学者文人としては国南、公龍などとして知られていたわけで、儒学者としての字と文人としての字を使い分けていたかもしれません(たぶん使い分けていたでしょうが、亀田鵬斎を詳しく知らないのでどれがどれかは分かりません)

日本人の場合ややこしいのは、諱と字がある上に通称があってさらに字も通称も好きなだけ使い分けられた、ということです。この点でペンネーム(たとえば松任谷由実は、楽曲提供者としては、呉田軽穂、という名前で書いている)と使い方は一緒だといえます。

ではなぜ字と通称が別になるかというと、これは日本の階級システムがそうなっているからです。
日本の場合、中国などのように明確な階級制ではなく、農民の出身なのだけど学問で身を立てたから(身分は農民のまま)名字帯刀を許可されたとか、町民なんだけど腕の腕のいい医者だからお城に出入りできた、というようにがちがちの階級社会ではなかったのです。

諱はそもそも他人が呼ぶのは無礼だったことはご存知だと思いますが(これは正しくは、その人の命運を握っている親と主君は別で、呼べたのだけれどもそれは「絶対的な命令(死ねといわれた死ぬ必要があるぐらい絶対的)」が出来る人だから、呼べたわけです。

そういう立場ではない人が諱で呼ぶのが当然に無礼なわけですが、学問や医術・建築などで庶民ながら武士と対等に話せるようになると、回りの庶民が字で呼ぶことも十分失礼なことになってきてしまうわけです。

ですから字と通称を分ける必要が出てきて「名を翼・・・字は国南・・・通称 文左衛門」という風になり、名は親と主君だけ、字は対等な立場で仕事(学問とか文人としてとか)が出来る関係のひとだけ、それ以外の人はどちらも恐れ多いので、通称を使ったということになります。

そもそも文左衛門のように古い日本人によくある左衛門・右衛門は律令時代の官職名であり、江戸時代では有名無実化して、課長・部長のような肩書きだったのです。繁華街を歩くと誰にでも「社長、いいこいますよ」と客引きをするように「肩書き」というのは通称として使いやすかったのです。

ですから、通称は誰でも呼べるその人の(日本語であだなとすると意味が違うので)ニックネームであり、字は通常は通称でいいのですが、文人や学者などになるとペンネームのような一段上(諱と通称の間)で対等な立場の人しか呼べなかったということです。

武士は通常、諱と字=通称(ただし、この通称は農民や町民は呼ぶことが出来ません)しかありませんし、一般的な庶民も諱と字=通称しかないのが普通でした。

このほかに「号」というものもあります。これは自分でつける場合も他人がつける場合も、その人の足跡にふさわしいというものが「号」になります。号は原則としてひとつです。(書画の号と詩の号を分ける人はいた)

昔の日本には階級があったため、誰でも名前を気軽に呼べるわけではなかったのです。ですから一人の人が名前を使い分けていたわけです。

字(あざな)と通称の違い -幕末から明治初期ころの人の名前についてお- 歴史学 | 教えて!goo

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