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 たとえば「著作者」とはそのまま、その本を書いた人だとわたしはとらえる。だが、「著作者」とは、王権が与えていた出版独占権を書籍商が防衛する中で、作品に一貫したアイデンティティを与えるために誕生した概念だと指摘されると、ハッとする。極論言うなら、主体であればいいのなら、人でなくてもかまわない、ということだ。ネットにつぶやくbotだろうと、言語解析プログラムの出力だろうと、「著作者」たりうるのだ。

 さらに、著作者についてもっと自由にとらえて良いのなら、人でもプログラムでもなく、「束ねるもの」になる。すなわち、(書いた人という意味での)著作者そのものではなく、その著作を示す「束ねるもの」に焦点があたるのだ。すべての本はオリジナルではなく、多かれ少なかれ、遠かれ近かれ、書いた人が通り過ぎた思想なり物語の援用・引用になる。ある本のモトとなった本を束ねているのが、著者ということになるのだ。

 もっと推し進めると、レビューしたり誉めたりけなしたりする「人」が、それらの本を束ねていることになる。そして、その「人」と自分との好みの位置や思想的距離によって、その「人」が束ねている本と自分の相対的な位置・距離が決まっていく。これはあたりまえのことかもしれない。読む動機は、そのテクストを示すレビュー/人/宣伝と自分の距離で決まっていくものだから。だが、その「あたりまえ」が可視化される。興味というポインタが赤い糸のように自分から伸びているのを、Augmented Reality を通してオーバーレイされる感じ。そこでの「本」は、ノードのように写っているだろう。

電子書籍に騒ぐ人へ「書物の秩序」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

書物の秩序 (ちくま学芸文庫)

書物の秩序 (ちくま学芸文庫)