上尾事件


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%B0%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1973年(昭和48年)3月13日、この日も組合員は遵法闘争を行い、籠原発上野行き上り普通列車が14分遅れて7時20分に上尾駅1番線に入線した。この日はこの年の2月1日から始まった「第2次遵法闘争」に突入した翌日であった。上りホームには既に3,000人もの通勤利用客でごった返しており、列車に乗り切れない乗客が数多く発生した上に列車も発車できなくなっており、上尾駅では改札制限を行っていた。

そのような状況の中で後続の前橋発上野行き上り普通列車(急行形の国鉄165系電車)も2番線に入線する。この列車も超満員で発車できない状態であり、この両列車を2駅先の大宮で運行を打ち切るという判断を行い、その旨の構内放送が行われた。その結果、一部の乗客が激怒、運転士への抗議のために運転室に詰め寄った。

また、数名が線路に下りて投石をする等をし、ガラスが割れる音を聞いて、車内の乗客も暴徒に加わった。殺気立った乗客の状態から身の危険を感じた運転士は、業務を放棄し上尾駅の駅長室に逃げ込んだ。

列車は当然運行出来ず、乗客の怒りに更に油を注ぐ結果となった。乗客約10,000人は暴徒と化し駅長室に突入、中にいた駅長にハンマーなどで殴りかかって負傷させた(駅長は全治5日間の怪我を負い、救急車で搬送されている)。また暴徒は上尾駅に停車していた電車の窓ガラスやヘッドライトを割り、運転設備を破壊した。駅の各種設備も破壊された。さらには上尾駅に進入できず300m手前で停車していた上野発新潟行き下り特急「とき2号」も投石され、窓ガラスが割られた。また事務室からは、何者かによって現金20万円が奪われた。駅は暴徒と化した乗客に占拠され、無法地帯は駅周辺にまで広まっていった。埼玉県警察は機動隊を出動させて現地に派遣したが、その数は550人と、10,000人以上いるとされた暴徒側に対してきわめて劣勢であり、暴徒の排除と検挙を断念して睨み合って牽制するしかなかった。

最終的に暴徒化した人数は10,000人前後だったと言われる。この暴動は同じ高崎線桶川駅北本駅鴻巣駅、熊谷駅と、東北本線の埼玉県内各駅にも飛び火し、これら地域一帯で一時的に治安が悪化した。宮原駅では、常日頃から通勤による疲労に耐えかねた乗客らが駅助役を拉致し、約4km先の大宮駅まで無理やり歩かせた(この時、大宮駅でも暴動が発生していた)。上尾駅周辺は約11時間に渡り不通となり、運行再開するも正常なダイヤでの運行は出来ず、代行バスで対応するものの終日ダイヤは混乱した。

暴力都市TOKYOみたいなあれかと思いきや、出てくる奴らはなんかほのぼのしてる
インタビューとか見てると、この時代の人たちはいまよりずっとメディアに心許してたんだなって気がする
この事件を機に国鉄民営化へ進んでいく

1973年



このビデオだけやたら編集がカッコいい

1968

上尾事件から遡ること5年

そして東大紛争、新宿騒乱の年
翌1969にはウッドストック
翌々年の1970には日比谷野音ジョー山中ゲバ棒もってステージに乱入してきた過激派十数人を拳とアンプで撃退
71年、沖縄返還
72年、あさま山荘事件である
巨人は連覇を続け、江夏が活躍していた

昔はなんでも暴力で白黒つけちゃうから、すぐ喧嘩になった。伝説があって七十年代に日比谷音楽堂でコンサートやってて、ちょうど学生運動が盛んだった頃でね。ロックフェスティバルをやってて、たまたま俺らが演奏してるとき日大全共闘って書いてあるヘルメットをかぶった連中が「ロック粉砕!」って殴り込みに来たの。歌ってる最中、パッと後ろみたら角材もったのが十人以上いて「ロックは金を取ってやるべきじゃない」とか言ってきやがってね。金とったっていっても3百円くらいだったんだけど(笑)。客は五千人満員で、みんな演出と思ってるんだよ。俺らはステージ壊されちゃいけないって、戦ったよ。連中をステージ上で返り打ちにして、追い返してステージやり切ったんだけど、なんか気が収まらなくてね。まだいるんじゃないか? って、日比谷公園の辺りをひとりで探しにいったら、6人くらい残ってたんだよ。リーダーともうひとり捕まえて、死んじゃうよっていうくらいボコボコにして、ステージに上げて土下座させたんだ(笑)。その時の写真見ると凄い、奴ら血だらけでボロボロだったから。そのライブは何組か出演して出番はジャンケンで決めたんだけど、奴らも殴り込みに来たときが悪かったんだね。他のバンドだったら、あんな悲惨なことにはならなかっただろうね。俺だけじゃなくて他のメンバーもアンプで殴ったり、コンクリ−トに頭打ちつけたり。それは伝説になってる(笑)。ステージで暴漢相手に暴れて終わった瞬間に雷が鳴って、雨が降ってね。なんか感動的だったな

http://journal.call-girl.jp/success/wribbhbnxj.html
そんな時代
大学に立てこもり、デモやゲバルトに精を出し、ゲバ棒もってひっぺがした敷石と火炎瓶を投げまくっていた。そんな奴らもまもなく定年
いい気なもんだ。せめて「最近の若い奴は」とか「俺の若い頃は」なんて得意気に振り返ったりするのは止めておいていただきたいものだ

丸山「君たちを憎んだりしない。軽べつするだけだ。」
学生「あんたのような教授を追出すために 封鎖したんだ。」
丸山「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。 そんな暴挙だ。」
(「毎日新聞」1968年12月24日付1面)

http://bootstraps3.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_06ac.html

だが良い音楽もいっぱいあった。ロフト前では森田童子が歌っていた。それらの歌が残っていくのなら、あの時代もまああれはあれで良かったじゃないか、と思わなくもない


↑山の向こうから朝日が差してくるというすごい演出。そしてなぜかいつまでも落ちない帽子ワラタ

↓そういえば中学の卒業式、なぜかこの曲だった。たぶんドラマのせいだろう

レッド(1) (KCデラックス)

レッド(1) (KCデラックス)

最後に昭和43年(1968)の紅白かな?これ
ザ・キングトーンズの名曲