飽和潜水

飽和潜水 - Wikipedia

大深度に潜るとき、最大の脅威となるのが減圧症である。人体が深海の水圧にさらされると、その圧力によって、呼吸するガスの中に含まれる窒素などが、生体の組織内に溶け込んでいく。これとは反対に、浮上する際には、周囲の圧力が低下するにつれて、生体組織に溶けきれるガスの量は減少してゆく。これによって、生体に溶け込んだガスは過飽和状態となる。健康な人の場合なら、ある程度のガスは自然に排出されるので、安全のための基準を満たして浮上すれば、めったに危ないことにはならない。しかし、浮上速度があまりに速かった場合や、体調に不備があったとき、余分のガスが気泡として体の中にあらわれることになり、塞栓など、一般に減圧症として知られる症状を呈することになる。

ここで、生体組織に溶けきれるガスの量は一定であることが重要である。つまり、ある深度に一定以上の時間いた場合、ガスは、もうそれ以上人体には溶け込まないようになる(飽和状態となる)。従って、それ以上、どれだけ長いことその深度にいようとも、浮上にかかる時間は一定となるので、長くいればいるほど潜水効率は向上する。これが飽和潜水の基本的な原理である。例えば、水深90メートルで40分間の作業をした場合、そのあと安全に浮上するには、約6時間半もの時間をかける必要があって、潜水効率が著しく低くなってしまうことから、このことは極めて重要である[1]。

<中略>

このことから、実際に飽和潜水を行う際には、地上・船上で高圧環境を実現するための再圧タンク(DDC:Deck Decompression Chamber) 、および、高圧環境を維持したままで再圧タンクから海底までを往復するためのベル(PTC:Personnel Transfer Capsule)が使用されることが多い。この場合、潜行と浮上に相当する部分については、地上・船上の再圧タンク内で圧力を増やしたり減らしたりすることで代用でき、海中では実際の作業潜水(エクスカーション)の間だけ過ごせばよくなったので、はるかに快適に潜水を実施できるようになっている。

現在、日本で飽和潜水を恒常的に実施している組織のひとつが海上自衛隊である。自衛隊は、潜水医学実験隊を中心として、飽和潜水を含む各種潜水技法の研究開発を進めており、1997年には400メートルで40日間の潜水を達成し、2008年5月21日には、潜水艦救難艦「ちはや」 (ASR-403) の潜水員が450メートルという日本新記録・世界第2位(当時)を達成している。この海上自衛隊の潜水部隊を例にとって、実際に飽和潜水を行う場合の手順を概説する[2][1]。

海上自衛隊潜水艦救難艦のほとんどには、飽和潜水を行える装備が施されているので、母船とすることができる。海上自衛隊は、通例、6名ないし3名のチームによって飽和潜水を行っている。潜水チームがタンク(DDC)に入ると、まず、空気を呼吸しつつ、2気圧(10メートル相当)まで加圧される。ここで点検を行った後、呼吸ガスをヘリウム・酸素混合ガス(Heliox)に切り替えて、所定の深度に相当する圧力まで一気に加圧する。ただし、ここで加圧速度があまりに速いと、上述の高圧神経症候群などの弊害が生じるため、海上自衛隊では、1メートル/分前後の速度を保っているとされている[2]。また、目標深度が200メートルより深い場合、ここからさらに加圧速度を遅くする。例えば、上記の2008年5月の潜水の場合、タンクで加圧を開始してから実際にエクスカーションを行うまでに4日間をかけている。このことから、タンク内には、シャワーやトイレなど、必要最低限の居住設備が設けられている[1]。

タンクでの加圧は、目標深度から10メートルほど浅いところで停止される[3]。この加圧の間、ベル(PTC)はタンクに連結されているので、タンクといっしょに加圧されている。タンクでの加圧が終わったら、実際に潜るダイバーはベルに移る。潜水を6人チームで行っていた場合、このうちの3人はタンク内に残って、ベルで潜るダイバーの手助けをする役割がある。仮に実際に潜っていたダイバーに怪我などがあったとき、地上からの救援チームがタンク内に入るには、これまでに見てきた手順を同じように踏む必要があり、時間がかかるので、何かのときに手助けできる人間をタンク内に残しておくことは、非常に重要である。

ダイバーがベルに入ると、ベルはタンクから切り離される。その後、ベルはヘリウム・酸素混合ガス(Heliox)によって、目標深度よりも多少深い深度まで加圧[4]されたのち、海中に投入されることになる。ベルは、まずムーン・プール(Moon pool)と呼ばれる船体の開口部まで移動したのち、海底の目標地点に設置されたガイド・ワイヤーを伝って、目標深度まで降ろされる。降下を完了したら、ベルはゆっくりと減圧される。ベルの圧力が、水圧よりわずかに低くなった時点で、ベルのハッチが開くようになるので、実際のエクスカーションに入ることになる。なお、この際、ベル内の3人のダイバーのうち、1人はテンダー(海中で作業を行う2人のダイバーの手助け(呼吸ガスや温水の調整)を行う)としてベル内に残る。

作業終了後は、上記の手順を逆に行うことになる。ただし、減圧症のリスクから、浮上(減圧)のほうがはるかに時間がかかることが多く、作業深度100メートルの場合は5日間、300メートルの場合は11日間を要する[2]。