伯仲叔季 ~排行と輩行~

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排行(中国の場合)

排行 - Wikipedia

排行(はいこう)は、中華圏における人名の呼び方の一種で、兄弟の長幼の順序に従ってつけられた番号を名前がわりに用いることをいう。字と同様に、諱を直接呼ぶことを避けた通称である。

古代においては長幼の順に「伯(孟)・仲・叔・季・幼・稚」と呼んだ。孔子の字の「仲尼」、孫権の字の「仲謀」は、いずれも次男であることにもとづく。また夏侯淵の子は上から夏侯衡(伯権)・夏侯覇(仲権)・夏侯称(叔権)・夏侯威(季権)・夏侯栄(幼権)・夏侯恵(稚権)・夏侯和(義権)となる。


番号で呼ぶようになったのがいつからであるかははっきりわからない。『晋書』王蘊伝や『世説新語』賞誉篇に王忱を「阿大」と呼んだことが見えるが、王忱は長男ではない。『南史』斉高帝諸子列伝下では南斉の武帝が弟で五男の蕭曄を「阿五」と呼んでいる。南北朝時代に徐々に使われるようになったらしい。


唐代にはさかんに用いられ、唐詩の題にも、たとえば王維「送元二使安西」、杜甫の「寄李十二白二十韻」など、しばしば見られる。唐代には排行以外にさらに親族名称・官職・名などを加えて「李大夫七丈勉」[6]、「秘書少監十弟諒之」[7]のように複雑になることもあった。


排行は近代にはいっても普通に行われたが、唐代のように公的な文章にまで使われることはない。

伯仲叔季(はくちゅうしゅくき)

ようするに親と主君以外が諱を呼ぶのはタブーであったので、「○さんとこのn番目の子」と言う意味で上から伯○(長男)、仲○(次男)、叔○(三男)、季○(四男)と呼び兄弟を区別していたと

現代でも父母の兄・姉を伯父・伯母、父母の弟・妹を叔父・叔母と表記を区別するのはその名残りか

すくなくとも唐代の頃には番号を付けるのが主流になっていたのだとすれば、日本の輩行もそれに倣ったのかもしれない

輩行(日本の場合)

輩行名 - Wikipedia

輩行名(はいこうめい)は、主に日本における男性の名前の種類のひとつ。輩行の仮名(はいこうのけみょう)、輩行仮名(はいこうけみょう)と言うこともある。江戸時代以前は、通称である仮名(けみょう)の一種であった。


本来は中国の習慣である。

「輩行」とは「一族のうち同世代の者」という意味で、通常は兄弟のことを言う。輩行名は「輩行」のうちの序列(=出生順)を表すもので、太郎(一郎)、次郎(二郎)、三郎……といった名のことであり、今日でも日本人の名前としても広く用いられる。また、「○太郎、○次郎……」といった風に、その前に1文字をつける場合も多い。2文字をつける例もある。


これら太郎、次郎といった名乗りの始まりは、遠く嵯峨天皇の時代に遡る。嵯峨天皇が第一皇子以下に対して太郎、次郎、三郎といった幼名を授けたことに由来する。


これが時代を追うにつれ一般に広まり、成人男性の名前としてつけられるようになる。古来の中国においては、実名(諱 -いみな)で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が呼ぶ事は極めて無礼とされ、代わりに字(あざな)と呼ばれる、本名とは別の名前を使った。日本においても中国のこの風習が伝来し(ただし異説もあるので、詳細は諱の項目を参照)、本名で呼ぶのを避け、代わりに仮名(けみょう)と呼ばれる通称を用いるようになった。この仮名として、輩行名が使われるようになった。

たとえば「鎮西八郎為朝」だったら「鎮西」が官位(というか自称?)で、「八郎」が輩行名、「為朝」が諱ということになるのだろうか(姓はもちろん源)

はじまりは嵯峨天皇の頃というから8世紀頃、平安時代初期
遣唐使の期間が630年から唐が滅ぶ907年までだから、当時、様々な文物とともに持ち込まれた中国の習慣の1つであったのだろう