判断ミスったら死ぬ、それが登山

なので山で死ぬ、死んだ、ということはそこに何かしら判断のミスがあったということです。
年齢、体力、経験、技量などの能力。装備、日程、行程などの計画。そして天候状況、現地状況などの予測。それらのいずれか、或いは複数の箇所で判断ミスがあったのです。
もちろんすべてを完璧に準備していても予測不可能なアクシデントによって事故が発生してしまうことはあります。落石、落雷、予測不可能な天候変化、野生動物に食料を食べられた、調理中の火傷や一酸化炭素中毒など様々な要因が考えられますが、まさに運否天賦としかいいようのないことが明暗を分けることだってありえるのです。
しかしそれでも、山で死ぬ、ということは敗北です。たとえどんなカタチであれ、生きてさえいれば勝利。山とはそういうゲームではないのかと私は思います。
山で死なないということは、人智では測り知れないことさえも判断に折り込まなければならないということであり、それらを含んで最終的に「行く」か「行かないか」という判断を下さなければなりません。その判断はけしてただ一度ではなく、行程を進めていくうちに何度も迫られることになります。そのすべてにその場その場で的確な、正解でなくとも及第であるような、致命的でないような判断を迅速に下していかなければ夏冬関係なく死にます。
山とはそういうゲームだからです。生死に関わるような判断を迫られる、それが山であり、山の魅力だからです。


前にも言ったかどうか覚えてませんが、登山というのは自らの肉体と自らが背負えるだけの文明を背負って、わざわざ文明のないところへ出かけて行き、自然様と勝負して帰って来る、そういう遊びです
もちろんいざとなったら文明の助けを乞うこともできなくはないわけで、所詮は遊びです
大自然の驚異に対抗するため、人類は数千年を費やしていまの安全で快適な文明社会を作り上げたわけですが、ひとたび文明社会を出てしまえば、個体としてのヒトにはありあまる脅威が今なおそこにあるわけです。
詰まるところ登山とは、わざわざ安全と快適を捨て自らの命を危険に晒す行為であり、本質的にはそこらの峠で暴走行為を繰り返す走り屋あたりとなんら変わらぬ反社会的な行為であります。それが"不法"となっていないのは社会における文脈がそれを許容しているから、ですが、山に登る以上、自らが行っている行為の反社会性を認識し、その反社会的行為の引き換えとして自らの行為を社会における文脈へと還元すべき義務があります。すべての登山者はこのことを念頭に置いておかねばなりません。


山で遭難することが愚かなのではなく、山に登ることそのものが愚かなのです。