イノベーション シュンペーター

 ちょっとした新製品の開発から画期的な発明にまで幅広く使われているが、私がイノベーションと呼ぶ際には、歴史的、社会的に大きな影響力を持った、非連続的な変化として巨視的かつ限定的に捉えている。このような意味でのイノベーションを最初に定義したのは、著名な経済学者であり社会学者でもあるヨーゼフ・シュムペーターである。

 シュムペーターが約1世紀前に著した『経済発展の理論』によれば、イノベーションとは「生産手段の新結合」を意味する。分かりやすく言えば、経済活動の仕組みを抜本的に進化させることであり、それが経済発展の源泉になる。それは、「新しい生産方法の導入」や「新しい財貨の生産」といった技術的な話だけではなく、「新しい販路の開拓」「新しい供給源の獲得」「新しい組織の実現」なども含む。

 シュムペーターは、「郵便馬車をいくら連続的に加えても、それによって決して鉄道を得ることはできない」との比喩を使い、イノベーションの非連続性を強調した。即ち、郵便馬車の車輪に改良が加えられて、例えばスピードが50%増すことはイノベーションとは呼べないだろう。同じ輸送手段でも全く異なる技術体系に基づき、鉄道網という新たなネットワークや貨物の大量輸送といった新たなサービスを生み出し、軍隊の運用のあり方を一変させるなど、社会経済の「軌道を変更」するような革命的な変化を指して、イノベーションと呼んだのである。

 「新結合の遂行者」、即ちイノベーションの主体は、旧来の支配者の中から現れず、「発展担当者の変更」が生じる。これもシュムペーターの重要な主張である。郵便馬車の事業者は、自らが所有する郵便のネットワークを前提とし、長年改良を重ねてきた馬車のさらなる改良に没頭するだろう。そこをあえて鉄道を開発しようとすれば、「以前は支柱であったものが、いまや障害となる」のであり、そのような自己否定は本質的にできない話なのである。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20101005/216513/

パラダイムシフトとはどう違うんだろう?

シュンペーターワルラス流の一般均衡理論を重視した。初の著書『理論経済学の本質と主要内容』はワルラス一般均衡理論をドイツ語圏に紹介するものであった。

古典派が均衡理論をもって現実経済を診断するのと異なり、シュンペーターは均衡をあくまで理論上の基準点として捉える。均衡状態はイノベーションによって不断にシフトしており、イノベーションが加わらないと市場経済は均衡状態に陥ってゆく。均衡では企業者利潤は消滅し利子もまたゼロになるという。市場均衡を最適配分とみる古典派の見解と異なり、シュンペーターにとって均衡は沈滞である。だから起業家は、つねに創造的な破壊をし続けなければ生き残れない。

ヨーゼフ・シュンペーター - Wikipedia

なるほど、均衡=死、破壊=創造と

イノベーションシュンペーターの理論の中心概念である。初期の著書『経済発展の理論』では新結合と呼んでいた。

イノベーションとは、経済活動において旧方式から飛躍して新方式を導入することである。日本語では技術革新と訳されることがあるが、イノベーションは技術の分野に留まらない。シュンペーターイノベーションとして以下の5類型を提示した。

1. 新しい財貨の生産
2. 新しい生産方法の導入
3. 新しい販売先の開拓
4. 新しい仕入先の獲得
5. 新しい組織の実現(独占の形成やその打破)

イノベーションの実行者を企業者(アントレプレナー:entrepreneur)と呼ぶ。この意味における企業者は、一定のルーチンをこなすだけの経営管理者(土地や労働を結合する)ではなく、生産要素を全く新たな組み合わせで結合し(新結合: neue Kombination)、新たなビジネスを創造する者として重視される。この点を明確にするため近年は起業者と訳されることがある。

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アントレプレナーってシュンペーター起源なの?

起業者が銀行組織の信用供与(銀行からの借入)を受けてイノベーションを実行すると経済は撹乱されるが、その不均衡の拡大こそが好況の過程であるシュンペーターは考えた。一方で、イノベーションがもたらした新しい状況において独占利潤を手にした先行企業に後続企業が追従して経済全体が対応し、信用収縮(銀行への返済)により徐々に均衡化していく過程を不況と考えた。以上は初期の『経済発展の理論』における基本的な見方であるが、後の大著『景気循環の理論』では景気循環の過程をより緻密に考察した。

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ふむふむ


シュンペーター門下の日本人経済学者としては、ボン大学時代の留学生である中山伊知郎東畑精一、同じくハーバード大学時代の柴田敬、都留重人等が著名である。なお、伊東光晴によると、「日本の経済学者でシュンペーターのもとを訪れた者のうち、シュンペーター自身が、来る前から異常に高く評価したのは柴田敬であり、来た後に高く評価したのが都留重人であって、これ以外の人についてはほとんど評価していない」とされている。:宮崎義一伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論53/8月号

ヨーゼフ・シュンペーター - Wikipedia

柴田 敬(しばた けい、男性、1902年9月2日 - 1986年5月22日)は、戦前日本の代表的経済学者。京都帝国大学で、マルクス経済学と一般均衡理論の統合など世界的にも注目される理論経済学の研究を行った。その後、経済ブレインとして、近衛文麿の経済体制革新運動や天皇による早期終戦工作等にも巻き込まれることになった結果、戦後GHQにより公職追放となる。追放解除後、山口大学教授・経済学部長、青山学院大学教授・経済学部長も務めたが、戦後は「忘れられた大経済学者」とみなされている。

福岡県福岡市に生まれる。福岡商業学校、山口高等商業学校(現山口大学経済学部)を卒業、高商時代の恩師作田荘一を追うようにして京都帝国大学経済学部に入学。河上肇のゼミに参加。京大助教授時代に欧米に留学、黄金時代のハーバード大学ではシュンペーターのゼミに加わり、高い評価を得る。当時のゼミ生には、サミュエルソンレオンチェフ、スウィージー都留重人錚々たるメンバーがいた。また、帰途には、吉田茂の仲介により、英国でケインズと面会し、「日本人としては、ただ一人ケインズと議論らしい議論を行った経済学者」(伊東光晴)としても有名。帰国後京大教授。

柴田敬 - Wikipedia

昭和15年(1940年)、ハーバード大学講師となる。昭和17年(1942年)、第二次世界大戦勃発(日米開戦)を受けて辞職して交換船で帰国後、妻の伯父である木戸幸一重光葵に頼み、外務省嘱託として就職。昭和19年(1944年)6月、東條英機により、意見が対立していた木戸に圧力を掛ける目的で、解雇された上、召集令状が出されて陸軍に徴兵された。しかし、木戸が東條の秘書官であった赤松貞雄(東條退陣の後の1944(昭和19)年7月から1945(昭和20)年2月まで、彼が軍務課長だった)に頼み込んだので、赤松は木戸の依頼に応え、外務省から都留のために「余人をもって替えがたし」という申し入れを陸軍に出させるように取り計らい、3ヶ月で除隊となった

父都留信郎は元東邦ガス社長。妻正子は航空工学者の和田小六(木戸幸一の弟で東京工業大学学長や東京大学名誉教授等を歴任)の娘で、元東大教授で理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長の和田昭允の姉である。

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