ニーチェを読む暇があったら、さっさと英語を読めるようにした方がいい 読書猿Classic: between / beyond readers
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哲学書は一人で読んでも訳が分からないようにできている/それでも読みたいあなたのための哲学書の読み捌き方 読書猿Classic: between / beyond readers
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人文的な、あまりに人文的な(笑) 読書猿Classic: between / beyond readers
どこかで耳にしたことがある程度でしかない哲学者の本だとか、いわゆる「古典」を読めば何か教養みたいなものが身につく、とでも言いたげな淡い信仰について言う。
無理。そういうことは、ない。
「教養がつく」なんて理由では、そもそも読めない。
本が読めないのは、読解力がないからでも、根気がないからでも、アタマが、いやむしろカラダが悪いからでもない。たとえ、これらすべてが当てはまったとしても、もっと大きな理由は別にある。つまり、その本を読む理由がないのだ。
ニーチェを読む暇があったら、さっさと英語を読めるようにした方がいい 読書猿Classic: between / beyond readers
すごく納得
どうして自分はニーチェなんか読まなくちゃならないのか、が分かってから読んだ方がいい(その時は、取り上げられたって読もうとするだろう)。
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だよねぇ
面白かったのは
古代ギリシアの哲学者では、プラトンとアリストテレス以外が書いたものは、ほとんど断片しか残っていないが、プラトンには、自分が一番の哲学者となるために、デモクリトスの膨大な著作を買い取って焼き払ったという疑惑がある。
伝承では「買い取って焼こうと思ったが、無理なので諦めた」ことになっているが、わかったものではない。
ソフィストの稼ぎ頭の授業料は前払いで1万ドラクマ(1億円ぐらい)だったが、プラトンはピタゴラスの著作が売りに出た時、これを1万ドラクマで買い上げている。
自分が僭主ディオニュシオスと仲たがいをして奴隷に売り飛ばされた時についた値は3000ドラクマだったのに、だ(トゥキディデスによれば紀元前5世紀のペロポネス戦争当時、兵士の日当が1ドラクマだった)。そしてプラトンとアリストテレスについては、本人が書いた以上に残っている。
つまり偽書や仮託書がある。けっこうある。
どこまでがそうなのか、完全にはっきりしている訳ではない。責任表示するなら、プラトン・アンド・ヒズ・カンパニーとかアリストテレスCo., Ltd.にすべきだ。
そしてアリストテレスの著作は、アレキサンドリア@エジプトのムセイオンから優秀なシリア人翻訳者たちの故郷を経てイスラム教徒から中世ヨーロッパに手渡されたが、プラトンの方は『ティマイオス』を除いて何百年もの間、失われていた。要するに、ある書物が残っているのは、細かく言うとケース・バイ・ケースであり、おおざっぱに言えば、たまたまだ。
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千年後のことまで見越して億の金を投じたとすればなかなかの商売人というかなんだろう投機?投資?ギャンブラーでもないかなんだ?
著作はともかく大人物なのは間違いないな。その投資は成功したわけだし
哲学書は、おおむね一人で読んでも訳が分からないようにできている。
先達+同輩と読んでいくというのが、オールド・スタイルで鉄板だが、なかなか哲学書を読むだけのために、それだけの「投資」ができる人は少ない。
「投資」と書いてはみたが、リターンが期待できるかといえば、まったくそうではないのだから、最初から掛け金の半分を持って行かれる宝くじよりも期待収益率は低い
ありていにいえば、金と時間をどぶに捨てるようなものだ。
哲学書は一人で読んでも訳が分からないようにできている/それでも読みたいあなたのための哲学書の読み捌き方 読書猿Classic: between / beyond readers
というのももっともなんだろうけど、"知的スノビズム"を満たしたいだけの人にとってニーチェなんてこれほど割りのいい「投資」もないわけで。
「読んだよ」って言いたいだけの人にとってみれば誰でも知ってるような哲学書に目を通す方が英語覚えるのに比べたらはるかに低コスト。わかってもわからなくても誰にも判定できないんだから。それにほら、ぶっちゃけ読まなくったって本棚に飾っとけばカッコぐらいはつけられるし、2000円で買えるインテリアとしてもそんなに悪くなくない?w
逆にそこ判定されちゃうような環境で読まなきゃいけない人は必然的にリファレンスあたったり原文あたったりしなきゃいけないわけだし、だからこそ「読むべき理由がないと意味ないよね」ってことになるんだろうけど
このへんの話ってプログラミング言語を覚えるプロセスと良く似てるなあと。「作りたいもの」や「やりたいこと」がないのに『プログラミング言語C』を読んでもしょうがないし、新しい言語覚えるならいきなりソース見るより簡単な解説書とリファレンス見るよね。哲学よりリターンはありそうだけどね。
ていうか理系でも文系でもそのへんの「理解の効率性を上げる方法論」はあんま違いがないような気がする。ていうか一緒。すごく膨大な体系を目の前にして天才はともかく凡人に取れる効率の良いアプローチなんてそんなたくさんないわけよね。
個人的には"知的スノビズム"がとっかかりでもいいんじゃねえかなって思ったり
「人文書」のダメなところは、改訂がないこと。
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時代ごとに流行廃りがあって、差し替えはあっても、蓄積がない、進歩がない。
だから、情報の量質ともに(さらに読みやすさの点でも)ふつうの教科書に軽く負けてしまう。
教科書は、読者に受け入れられれば改訂があるし、メジャーな分野なら競争もある。さらには練習問題までついている。
たしかにそうなんだろうけど、教科書が面白いかっていうとそんなこともないんじゃないかな
効率的でないというのはあるのかも知れないけど、必要があって読んでるわけじゃないなら「読んだ以上わからなきゃいけない」ってことはないと思うのね。あまり時間をかけないようにして、途中で挫折しても気にしないで、ようはわかりもしないのに無理しようとしないで目を通すだけ通してみるってのも別に良いんじゃないかな。どうせわからないだろうけどはじめから敬遠する必要もない気がする。読もうとするってことは、せっかく興味を持ったんだからわかんなくても読むだけ読んでみてもいいんじゃないかなって。一回読んでみて「なるほど、わからん」って閉じればいい。それでなんかなるかっていったら何にもならないけど、それはそれでいいんじゃない?
えーっとだから、なんだ
- 一度で全部わかろうとしない
- 飽きたら止める
- 読むのを苦痛に感じたらそれは興味がなくなったということ
- とばし読み可
- 途中からでも途中まででも可
- あとで読む=読まない
- なるべく薄い本から読む
ぐらいで良いんじゃないか「必要ない」人は
あと
「古典」自体がコンテクスト・フリーなのではなく、解釈する奴らが手前勝手にフリーダムなのだ。
ニーチェを読む暇があったら、さっさと英語を読めるようにした方がいい 読書猿Classic: between / beyond readers
とか
ルソー『社会契約論』 →「エミール」に差し替えたのちに、クズ籠へ。
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とかがツボったw