シド・フィールド関連

マルチエンディングシナリオ+ドラマチックストラクチャー -のつづき

彼の理論はじつに明確で、
映画や演劇は

 「時間芸術」

であると規定しています。
つまり、始まりがあって終わりがある。
この時間の流れの中で物語は始まり、終わるのだ。
きけば当たり前のことなんですが、
作っている最中は忘れがちになるんですね。

 「ドラマツルギーを時間によって管理する」

単純にして明快、
目からウロコが落ちました。

シド・フィールド先生再登板: 映画づくりのジャングルで、いまだ迷子だし…

シド・フィールドの場合は映画や演劇の脚本を前提にしてるから成り立つんだけど、マルチエンディングなゲームに置いては必ずしも成り立たないというか、時間による管理の層がそこまで単純でもなくなっちゃうよねと。たぶんマルチエンディングシナリオの方法論(エロゲの黄金則)というのも誰か考えなくちゃいけないんだろう。

 だから、『マトリクス』の第一作が成功しながら、その後の三部作の展開が崩れたことをシド・フィールドは指摘しているのはおかしいのだ。ウォシャウスキー兄弟は、ただ単にハリウッドのマニュアルに忠実に従っているだけだ。しかし、『マトリクス』という作品が扱っている題材は、そもそもハリウッドのマニュアルではうまく処理できないようなものなのだ。その結果、『マトリクス』の作品世界の全体を描こうとしたとき、否応なく破綻した。

 シド・フィールドは、自分のやり方が「全てのストーリーに当てはまる」というようなことを言っているが、これは間違っている。そのことを明確に示しているのが『マトリクス』三部作の失敗なのだ。ウォシャウスキー兄弟の能力が低かったから失敗したのだとシド・フィールドは思っているのだろうが、そうではない。あの作品の失敗は、ハリウッドのマニュアルの限界それ自体を示している。そこで、ここでは、『マトリクス』の脚本の構成を分析しながら、そのことについて少し細かく書いてみたい。

 ハリウッドのマニュアルの基本としてあるのは、大ざっぱに言うと「まず作品の全体像を調和ある形で整え、そこから逆算して細部を決定していく」ということだ。このような考え自体は、欧米では目新しくも何ともない。というよりはむしろ、このような考えこそヨーロッパの思考の保守本流だと言うべきだろう。昔からあるストーリーテリングについての考えを、誰でもすぐに使える形にシンプルに整理したものこそ、現在のハリウッドのマニュアルなのだ。

 だから、シド・フィールドがアリストテレスやへーゲルに言及するのは、偶然ではない。劇作の構成原理として全体像の調和を重んじ、そのための方法論を最初に整備した著作こそ、アリストテレスの『詩学』だったわけだし、「全体性」についての思考自体をヨーロッパ史上最も完成された形で示した者こそ、へーゲルに他ならなかったわけだ。

 へーゲルの弁証法は、常に二項対立に基づいている。ある概念があれば、それと反対の対立概念も存在し、両者は矛盾する。だがこの矛盾が解決されることで、対立する両者を含むより高次の概念が開かれる。そして、このような対立の集積がやがては世界の全体像に至る。世界の内で、部分と全体はスムーズに連続する。

The Red Diptych

ふむぅ、つまりマトリクスのような「脱超目的」的な、言うたらもう一段メタな展開をするとシド・フィールドの方法論は必然的に破綻するんじゃないかと


まあ一言で言ったら「予定調和」なんだよな。方法論にしたがってストーリーを作るって言うのは。ただボックスオフィスを伸ばすには予定調和的であることが必要不可欠とも言えるし、予定調和の中で面白さを作っていく(水戸黄門のように)のがハリウッド的映画、娯楽映画と言えるかもしれない。まあ崩すにしても知らないでやってるよりは知っててやってるほうがいいんだろうが。


そういやこんな映画もあったな

ラン・ローラ・ラン [DVD]

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何回かバッドエンドを迎えながらチェックポイントから再開という構成だったよね、これたしか