れいのアレについて雑感

たまたま村木女史が几帳面で運良く検察のシナリオが無理筋で幸運にもそれ以上の証拠が出てこなかった。から無罪になった。村木女史の心が折れていたらそのまま有罪になって前田が逮捕されることもなかっただろう。村木女史が的にかけられたのもたまたまだったと思うが、村木女史は強かった。検察が思うよりもずっと強かった。世間一般の普通の大人だったら即日落とされて検察の絵図どおりにカタに嵌められていただろう。ここまで几帳面な性格じゃなくて細かく正確な記録をつけてなかったら曖昧な記憶につけ込まれていいように謳わされていた可能性が高い。「良い加減なことを言うな!」と恫喝されたら大抵の人間は「そうだったかもしれない」なんて思ってしまうものだ。今回、前田はトカゲの尻尾よろしく切り捨てられたが、こういった問題は特捜に限らず警察機構の上から下まで蔓延してる。マスコミと警察の馴れ合いが続く限り告発もされない。それでいいんだろうか?飛びぬけて几帳面な人か失うものがない人しか検察と闘えない。力を持たない優秀でないごく普通の人間は的にかけられた段階で人生終了である。そんな不正義をずっと放置している。検察だけの問題じゃない。マスコミも大衆も関心を持たない。「自分には関係ない」からだ。それでいいんだろうか?


考えてもみよう、常に細かく(分刻みで)記録を残し(携帯やネットなどは使えない!)、常にレコーダーを携帯し、検察の動向を逐一監視し、普段から弁護士を雇い、六法全書をすみからすみまで記憶しておく、そんなことができるだろうか?そういうことができる人は限られてる。だがある日突然、思いもよらない嫌疑で逮捕される可能性は誰にでもある。冤罪を証明できた人はたまたま運が良かった。いろんな幸運が重なったから証明された。運に頼らないで無実を証明するには普段から自分の身を守るために怠りなく準備しなければならないのだろう。そんな世の中でいいんだろうか?