薄い本だが停滞中。なかなか読み終わらないので返しにもいけない…
社会学の根本問題(個人と社会) (SEKAISHISO SEMINAR)
- 作者: G.ジンメル,居安正
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 2004/05
- メディア: 単行本
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社会学者ってのは「社会学とは…」みたいな話をせずにいられないんだろうかね?
以下メモ
- p.72 コケットリー coquetry=媚態
コケティッシュ?とは違うの?
媚態(コケットリー)とは気を引きながら決して相手のものにならないことであり、拒みながら与えることであるが、それが雌の不安の表現であるのは、雌はその身に子を宿し、(出産という形で)我が身を疎外するものだからである。
エロティシズム - Wikipedia
- p.77
社交が提供するのは、会話が正当な自己目的であるとされるおそらくは唯一のばあいである。それというのも会話はまったく双方的であり、さらにおそらくは「自己省察」を除けば社会学的なすべての現象のなかで、もっとも純粋でもっとも微妙な双方的形式であり、それによって会話は、いわば関係以外の何者にもなるまいとする関係の実現となり、したがってこの関係においては、通常は相互作用のたんなる形式にすぎないものが、その自己充足的な目的となるからである。
ジンメル先生のいう"社交"っていうのが何を指すのかよくわかんないな
訳者附論より
- p.181
ジンメルによる定式化
すべてのものはすべてのものと何らかの相互作用の状態にあり、世界のあらゆる点と他のあらゆる点とのあいだには、作用力と往来する関係とが存在する
また
社会はそれ自体で完結した存在、絶対的な統一体ではない。それは人間の個体がそうでないのと同じである。社会はその諸部分の現実的な相互作用にたいしてはたんに二次的にすぎず、たんに結果にすぎず、しかもそれは実際にそうであるとともに考察にとってもそうである。……究極の認識論的な根底にたちかえれば、われわれは次のようにいわなければならない。すなわち社会という統一体がまず存在し、その統一的な性格からその諸部分の性質や関係や変化が生じるのではなく、むしろ諸要素の関係と活動とがあり、これらにもとづいてはじめて統一体について語ることができる
さらに
- p.182
人間はきわめて多様な諸要因の総和であり所産
真の存在としてはたんに点のような微細な原始が残るだけ