俺にも言わせろ的な

ナウシカで盛り上がるネットを尻目に、でも誰よりも語りたい自分がここにいる
マンガの話題も映画の話題も、誰よりも語りたくてうずうずしている。同時にそういう自分を恥じていたりもする。凡百のありふれた考察にまた新たなページを付け加えることをだ。ただ、感じたことは感じたこととして、その都度書き残しておくことに、それなりに意味はある、とも思うけれど。そういう排泄口のひとつとして、愚にもつかないゴミクズのごとき思考過程の掃き溜めのひとつとしてここがあるわけだし
「なぜ山に登るのか」という問い立てにしてもそうだ、俺は、それを、語りたい
「違うんだ」「そうじゃないんだ」と言いたい。マンガを描かなくてもマンガについて語ることはできる。映画もそうだ。でも山は、登らなければ話にならないよね。山は。「違うんだ、そうじゃないんだ、ホントはこうなんだ」というなら身をもって実践しなければならない。そうして発言権を担保するため「登らなくてはいけない」というある種の強迫観念が沸いてくる。それもどうかと思うのだ最近は。「違うんだ、ホントは山に登る必要なんてはじめからないんだ」と言うのは過激すぎなんだろうか。過激?いやいや…
たとえば「批判したいから観る」というのはヲタ的には割りとありふれた生態だと思う。でもそうした体験を積み重ねるのはなんか有益じゃないというか、でもこういうヲタとヲタとがネットで繋がれた今的状況において「特殊な体験」てそれほどないんじゃないかなぁという気もして…いや、そうでもないか…よくわかんないや
でも「より深く」を求めると周囲との齟齬をきたすという体験はヲタ的日常においてはよくある光景なんではないかな。その齟齬ってやっぱ埋めようがないよね。きっとわかりやすく語る言葉を持っている人も中にはいるんだろうけど、そんなのごく一部な才能だ。知れば知るほどよくわからなくなって結局は語るべき言葉をなくしてしまう。バベルだな。
「俺も混ざりたい」欲求はそれなりに強いんだろうなぁ…
興味をなくすことで自分を守っている面はあると思う