見よ愛がいかに奪うかを。愛は個性の飽満と自由とを成就《じょうじゅ》することにのみ全力を尽しているのだ。愛はかつて義務を知らない。犠牲を知らない。献身を知らない。奪われるものが奪われることをゆるしつつあろうともあるまいとも、それらに煩《わずら》わされることなく愛は奪う。もし愛が相互的に働く場合には、私たちは争って互に互を奪い合う。決して与え合うのではない。その結果私たちは互に何物をも失うことがなく互に獲得する。人が通常いう愛するものは二倍の恵《めぐみ》を得るとはこれをいうのだ。私は予期するとおりの獲得に対して歓喜し、有頂天《うちょうてん》になる。そして明かにその獲得に対して感激し感謝する。その感激と感謝とは偽善でも何でもない。あるべかりしものがあったについての人の有し得る自《おのずか》らの情である。愛の感激……正しくいうとこの外《ほか》に私の生命はない。私は明らかに他を愛することによって凡てを自己に取入れているのを承認する。もし人が私を利己主義者と呼ぼうとならば、私はそう呼ばれるのを妨《さまた》げない。もし必要ならば愛他的利己主義者と呼んでもかまわない。いやしくも私が自発的に愛した場合なら、私は必ず自分に奪っているのを知っているからだ。
この求心的な容赦《ようしゃ》なき愛の作用こそは、凡ての生物を互に結び付けさせた因子ではないか。野獣を見よ。如何に彼らの愛の作用(相奪う状《さま》)が端的に現われているかを。それが人間に至って全く反対の方向を取るというのか。そんな事があり得べきではない。ただ人間はnicetyの仮面《かめん》の下に自分自らを瞞着《まんちゃく》しようとしているのだ。そして人間はたしかにこの偽瞞《ぎまん》の天罰を被《こうむ》っている。それは野獣にはない、人間にのみ見る偽善の出現だ。何故愛をその根抵的《こんていてき》な本質においてのみ考えることが悪いのだ。それをその本質において考えることなしには人間の生活には遂に本当の進歩創造は持来《もちきた》されないであろう。