「人生は断片の総和より大きいのよ」
映画『16歳の合衆国』
人は変わり続けることを止められないのに、なぜ私たちは変わらぬ自分を保持し続けることをあきらめないのでしょうか
情報体としての私たちはmixiにおいて、関係性の中に表される自己と向き合っているのかもしれません
500万の会員と、その裏に日々退会して行く人々の群れは、私たちが何を望み、何を求めていたのか、何を得ようとし、また得られなかったか、を表しているような気がしてなりません
会社が存続すら既に危うい状態であった、ということを知った時、意識の外でホッとしている自分がいた、というのは失うものすら別にない、ということを再確認したことの、安堵なのか、ただそれとは無関係ななにかだったのか
人生の意味が、未来への希望であるならば、"不確定な未来"もまた、私たちが望んだことでもあるのでしょう
誰にでも、明日への希望を持つことが許されているのですから
生きることが、辛く、厳しいのなら、年間の自殺者がわずか3万人で済んでいるという事実を、私たちはむしろ喜ばなければなりません
なにしろ残りの1億1997万の人々は、希望があるにせよ、ないにせよ、とにかく生きて人生を送る、という選択を(それがやむを得ないものであったとしても)下しているということなのです
変わり続ける未来に、希望を持つことは、許されないことでしょうか
変わり続ける自己に、明るい展望を抱くことは、どうでしょうか
ときに、それは遠く、また近く、あるいは強く、そして弱く、喜び、そして悲しみ、深く、浅く、硬く、柔らかく
私の人生が断片化してしまったとしても、あるいは"自分語り"の空虚のなかに埋没してしまったとしても、依然として、いや…
変えようのないものは、変えないほうが良かったのではないのか、と自問自答することはあります
嘘です
いつしか失われていくのは何だったのか、もう何も思い出せません
分かっていた筈のことも、分からなくなってしまう
それは魂の自浄作用でしょうか
それともただの逃避か
しかし私たちはみな、一様に逃避することを許された存在です
それに誰もそれを止めることはできないのですから
日々、過去の傲慢な振る舞いを、思い起こしては気付かされるのは、苦渋に満ちた、しかしただの自己欺瞞に過ぎません
言葉遊びはなんの解決にもならないと、なにより自分自身でわかっていた筈なのに…
反省など、なにもしていません
いままで、反省、というものをしたこともなければ、その意味さえよくわからないというのに
変わり続ける自己の存在を、肯定するよりほかには
どっちに書こうか迷うんだよな、ていうかどこに書けばいいんですかねぇ?こういうアレは