下降気味

遠かったけど良い式だった。
着物姿が目に焼き付いて離れない。いや想起された過去の記憶と結びついて離れない。あの着物は、あの帯は。式場のすみで、イレギュラーな自分の存在を薄めながら、眼前に交錯するそれぞれの様々な人生の有り様を眺めていた。まるでそこに自分などいないかのように。見知った顔、知らない顔、かつての恩師、親戚のおじさん、おばさん、晴れ着を着た子供、きっとどの結婚式でも同じように繰り返される光景。なくなっていく現実感。ただ浸りに来た、というだけなのだ。それは良くわかっている。散りかけの桜も、春の陽気も、ただ鬱に酔いしれる為の演出の一部としてそこにあるだけなのだということも。
決別のフリなどなんの意味がある。いやすべての意味は私自身のものだ。意味がないなどと強がりを言うのは止めよう。ただ自分がそこにいた、というだけで充分満足したではないか?なのに何故、こんなに混乱しているのか、それが分からない。